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犬山×こども×大人×てつがく×対話


by 犬てつ

てつがく対話って何なのだろう? 実践WSに向けて

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てつがく対話って何なのだろう? 
 
「てつがく対話」の活動をはじめてみたものの、
てつがく対話って何?
という問いはずっとある。 
 
そのなかで、これまで一番まあそうかなと思っていたのが、
「正解のない問いについて話しあうこと」だった。 
 
でも、正解のない問いについて話しあえば、
てつがく対話になるのか?
正解のない問い=てつがく 
なのか? 
 
今年から子どもてつがくの進行役になることを目指す
実践WSもやることになったので、
大人のてつがく対話と子どものてつがく対話は違うのか?
ということも気になっている。 
 
そんななか、教育現場で「哲学対話」担当の
専任講師をされている土屋陽介さんの博士論文
「子どもの哲学と理性的思考者の教育―知的徳の教育の観点から―」
を読ませてもらって、いろいろとわかったことがあった。 
 
子ども哲学の源流は、1960年代末から1970年代前半にかけて、
マシュー・リップマンが執筆した小学校高学年向きの哲学小説と、
それを教材として用いた実験的な授業にある。 
 
土屋さんはリップマンの提唱した子ども哲学を次のようにまとめている。
「子どもの哲学とは、子ども同士の対話による哲学的な探究(哲学対話)を通して、子どもの思考力を育成することをねらいとした教育プログラムである。」 
 
リップマンにとって、子ども哲学は教育プログラムで、
優れた思考力教育のための有効なプログラムになるというものだった。
なので、授業のためのカリキュラムが重要な位置を占める。
教育上の目標として、育成されるべき思考力は以下のようなもの。 
 
●論理的・批判的思考力
●創造的思考力
●対話的思考力
●倫理的思考力
●経験的(状況的)思考力
●ケア的思考力 
 
土屋論文では、こうした目標のなかに含まれているが
今まで結構うやむやにされてきた、
・スキルで養える批判的・推論的思考力と、
・スキルでは養えない知的徳とを分け、
哲学対話はその両方を育むことができるということの可能性について論じたものだった。
 
知的徳についてもう少し詳しくいうと、

・スキルでは養えない人格特性で、
・知的な善や真理を求めようとするオープンな心に裏付けされ、
・模倣を含んだ個別的な経験の積み重ねによって涵養されうる、
・有徳な行為を成立させるために必要な
・知性の働き、思慮深さである「フロネーシス」を要するもの。

といったような説明ができると思う。

(詳しくはぜひ土屋さん論文を参照してください。学校教育の現場に哲学対話をカリキュラムとして組み入れるための、理論的バックグラウンドを整備した論文といえます。) 
 
要するに、私の理解でざっくりいうと、
論理的なことが言えても、それが有徳な目的のためでなければ、十分ではない。
哲学者ハンナ・アーレントが「イェルサレムのアイヒマン」で分析したような、
ナチス時代に行政的大量虐殺を実行した役人としてのアイヒマンは、
上からの命令を着実に遂行できる論理的、経験的思考能力があったかもしれないが、
その行為の是非を問う、倫理的、ケア的思考力を有してはいなかった。
世界のなかで、共に生きる者として、
他者の視点から世界を見る方法も同時に身につけること、
そうしたことが子ども哲学では求められているのだろう。 
 
ともあれ、子ども哲学は、そもそも教育プログラムだったのか!
ということに、リップマンの本でそれなりに理解はしていたつもりでも、
改めてそれが基本のキとして語られてみると、軽く衝撃を受ける。
じゃあ、私がやろうとしていることは、
近くの学校ではまだ実践されていない教育プログラムを、
私塾のような形でやろうとしているのかというと、
そうではないような気がする。 
 
そもそも私のなかでは「子どものために」という視点は中心にはあまりなく、
子どもと一緒にやることが、大人にとってプラスになる!という実感の方が強い。
子どもの率直な問いが、慣習や常識に固まった思考に風穴を開けることが多いからだ。
そして、その問いに対して、子どもが理解し、納得できるような言葉で語ることは、
とても本質的で、難しく、自分の立ち位置が問われることだ。 
 
「なぜ学校に行かないといけないのか」
「なぜ何かをやらないと怒られないといけないのか」
「なぜあの子に許されていることが、私には許されていないのか」 
 
こうした問いに対して、そういうものだからだ、ではなく、
きちんと自分なりの答えをみつけることは、本当に難しい。
子どもの問いは、「お前はどうやって生きてきたのか?」を問われるに等しい。
だから、私は「子どもと大人」のてつがく対話にこだわり続けているのだけれど、
どうやら子どもの哲学に期待されていることは、そういうことでもないらしい。
今までも犬てつの試みのなかで、周りが期待しているようなことと、
自分が考えていることに何となくギャップがあると感じていたが、
こうしたことにも一因があるかもしれないと、
ここまで書いてみて、はじめて気がついた。 
 
教育プログラムとしての子どもの哲学を考えるのであれば、
おそらく、「論理的思考力」のスキルを高めたり、
「模倣を含んだ個別的な経験の積み重ね」を促したり、
「他者の視点からものを見る見方」を伝えたりといった、
リップマンが挙げるそれぞれの思考力を高める方法に焦点をおいた
進行役養成のプログラムを考えるとよいのかもしれない。 
 
うん、そのことも重要に違いない。
でも、それと同時に大人自身が教育者としてではなく、
子どもに対してオープンな心をもつ、「知的徳」をもつことも必要だろう。
 
どんなプログラムを組めばよいのか、まずはやりながら皆で考える。
そんな一年になればよい。 

(ミナタニ アキ)




by inutetsu | 2018-04-21 11:44 | てつがく対話 あれこれ