こども哲学 実践WS(6)対話における場の安全性とは何か
2018年 11月 23日
11月20日(火)「子どもてつがく 実践ワークショップ(6)」 開催しました♪
Vol.6 対話における場の安全性とは何か
講師・進行 安本志帆さん
参加者 12名
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今回はわざわざこのWSに参加するためだけに東京から来てくださった方もいるほど、
「場の安全性」は哲学対話における肝となります。
ここは安心安全な場所なので何を話してもいいですよ、
とよく言われることがありますが、果たしてなぜそう言えるのか。
「安全」には万全を尽くしているかのように見える学校の場を考えても、
「安心」して通える子どもと、そうでない子どもがいるように、
「安心、安全」はそれほど簡単に保証されるものではありません。
参加者としてどういう場合に安心安全と思えるのかを語りあうことのなかから、
対話の場を作る主催側としてできることは何かを考えます。
まずは自己紹介がてら、自分で考える「対話」について話してもらいます。
―聴く力、話す力
―もっと相手のことを知ろうとする気持ちが必要
―自分の気持ちを正直にいうのは難しい
―子育て、保育の現場で必要なこと
―子どもたちには話したい欲求がたくさんある
―対話が何か正直よくわからない。でも、対話によってその人がめくれてむき出しになる感覚が好き。その人が愛おしくなる。
―自分にとっては苦手なものだけど、子どもには必要なもの
次いで、「安全性」について話が進みます。
ファシリテーターや場を作る人にとっては、
安全な場を作ろうとするのは当たり前のことだけど、
家族や子どもと対話したいと思っている人にとっては
「安全性」という言葉はピンとこないかもしれない。
てつがく対話における安全性ということが何かをきちんと考えてみたい、
ということで、まずはこの問いです。
Q 安全(安心)ってどういう状態?
―安心と安全がセットで使われることが多いけど、安全だけど安心でなかったり、安心だけど安全じゃなかったりということがある。
―発言が批判されたり否定されない=安心
―ファシリテーターとして、ここは発言を否定、批判しない場所だということを伝えているが、人によって反対の意見がでてくると否定されたようになることがある。
―安心は提供できるものではない。批判の意図がなくても傷つくことがある。参加者がどう思うかまではコントロールできない。
―参加する側として考えると、対話のスピードが速いと安全だと思えない(主催者側にまわると時間が気になって、配分に工夫している)
―進行役に何でもOKと言われても、OKとは思えないこともよくあって、自分の振れ幅によって受け止め方が違う
―家庭(親子、夫婦等)のような力関係が発生しているところで、親が子どもに何でも話していいよと言っても、子どもにはその通りには受け取れないことがよくある。やる、やらないの自由、受け取る、受け取らないの自由があるところが哲学対話における安心安全な場。
―倫理観にふれているかもしれない問題も言っていいという自由。
―事柄についての反論はしても、人格の否定はしないという前程があると安心を生む。
―場にいる人が、自分の話を聴いてくれているかどうかが安心安全には重要。理解されてなくても、思い込みやバリアが最初からあるのではなくて、聴こう、受け止めようとしてくれていることが大事。
―主催者としては、ここはどういう場なのかという枠組みを参加者に最初に伝えることが安心を生む。
―特に子どもの場合は大人に連れてこられるので、数倍不安に思っている。人前で話すのが苦手な子もいるし、不安要素をなくすためには、ここはどういう場かというのをきちんと伝えることが大事。
―共感された、言いたいことを言えたということが心的な安全を生む
参加者としての立場と、主催者としての立場の両方からのたくさんの意見がでてきました。
次いで志帆さんからは、より主催者側の立場にフォーカスした問いが出されます。
Q 哲学対話における安全性を考えたときに、何でも話していいという枠組みを知らされて安心した人が、好きなことを言いました。それによって傷ついたり、発言するのが怖いと思った人がいました。となったときに、これは安全な場といえるだろうか?
―哲学対話にはじめて参加したときに、次の人が自分と違う意見を言って、否定されたように思えてパニックになった。でも、その後、否定されたわけではないと思えるようになって、その後の対話で、自分のそうした気持ちも発言できた。その場で否定されたと思っても、全体としてそうではないと思えたとしたらそれでいいのではないか。
Q 否定されたと思ったのに、発言できるようになる過程には何があった?
―最初に否定をされないのが哲学対話のいいところという話を聞いていたので、否定されたわけではないということが自分の頭のなかにインプットされていたから。
―進行役としての志帆さんへの安心感がある。
Q その安心はどこから得られますか?
―進行役の人となりがわかっていると安心できる。場でのやりとりをみてわかってくる。その場で話せなかったり動揺したりしても、次にまた来ようと思えて、次に来て話ができる場だと思えることが安心な場。
Q 傷ついてしまった経験があるときってどういうとき?
―自分が信念をもっているテーマだと、信念を語ったときに違う意見がでてくると、否定された、傷ついたと感じるときが多い。他の哲学カフェでも自分の信念を語った人はどんな違う意見がでてきても絶対に譲らなかったり、こう思うということを主張しがちになる。
Q となると、これ(傷つく、傷つかない)は受け取り側の問題? 主催者側が何かできることはないのか?
―主催者側として、「違いを楽しみましょう」、「違うのが当たり前」と言っている。あるとき、参加者のそれぞれが価値観を語る独白と独白の応酬で、安全な対話の場所ではなくなり、大失敗した例がある。違いと違いを見つけられるような場にもっていければ良かった。大成功の例は、独白じゃなくて、お互いの意見を拾いあいながら対話していたとき。拾うぜ、拾ってもらった感があって、あれは安全だったのかと思う。「違いを楽しもう」という前程を参加者にわかるようにするのが運営者側の役割かな。
―受け入れやすいテーマだと語り合いやすい。過去のWSでも「魚は何を考えているか」と「幸せとは何か」だと参加の気安さがまったく違った。主催者だからこそわかるテーマの難易度を、主催者が「今日はちょっと難易度が高いですよ~、やばいですよ、価値観と価値観のぶつかりあいがありますよ~」とか、最初に伝えておくといいかも。枠組みを伝える。主催者側の好みもあるので、私は価値観のぶつかりが好きなんですよ、と最初に伝えるとか。
―価値観のぶつかり合いが好きな人と、それで傷つく人がいる。自分の主張を頑なにとおす人がいて、場がヒートアップしてしまうことがある。主催者としては選べない。受け取り側の問題かもしれないが、運営する人として、それは何とかしたい。対話によって人がゆで卵のように殻がめくれてぷるるんと出てきたのに、それが滅多突きになって、血を流して帰ってもらいたくはない。としたら、主催者としては何ができるんだろう。
Q 哲学対話における安全には、「心的」な安全だけでなく、「知的」な安全も入る。知的な安全とはどういう状態のことだと思いますか?
―最近、自分が相手の話になにげなく別の視点から話したことで、「難しいこと考えすぎなんじゃない」と言われた。哲学対話の場ではそんなことは言われない。
―子どもが真面目に一所懸命話した発言をバカにされた。考えるのを否定されたら安全じゃない。
―難しく考えたい人もいるし、そうじゃない人もいる。それぞれ違う選択をしている人がいることを認めると、違うアプローチをしていても、安心安全なんじゃないか。
―主催者として、傷ついたり、怖いと思う人がいると思うことを知っておくこと。進行役が違う意見の人を通訳して伝えるのは重要な仕事。
―心理カウンセリングの手法として、伝え返しというのがあるが、てつがく対話では、別の話し手の意見をくみとりながら、全体にもわかるように翻訳を加えることがある。Aさんの意見がBさんの強い口調によって書き消されてしまいそうになったら、Aさんの意見を少しサポートして同じ土壌に並ぶようにするなど気をつけている。
―受け取られた感がないまま別の意見を言われると否定された気持ちになる。受け取った感があるかどうか。相手が何を大事にしているのかを考えた上で言葉を返す。これは進行役ができること。
Q 進行役はそのときに、ジャッジしないということが可能なのか。
―ジャッジしないのは非常に難しい。
―正しく聞いたかどうか。こういう解釈でいいですか?と聞き返すことも大事。
―進行役としての自分の思想もある。冷静になって、それをちょっと置いておくよう意識するということが進行役として大事。
―哲学対話の進行役と保育者の役割が同じ。言葉で伝えられず、思わず手がでてしまう幼児がいるとき、保育者はその気持ちを翻訳して、「こういう気持ちがあったんだけど、手がでちゃったんだよね」と声をかけることで、手をだされた側も相手を理解できる。そういう積み重ねで、翻訳がなくても相手の気持ちを理解することができる。対話の積み重ねによって人も場も成熟していく。
最後の締めに、志帆さんが考える哲学対話における知的安全性についての話。
―例えば「お前のこと殺すぞ」という発言があったとき、普通だとそんなことを言ってはいけないという話になるけど、哲学対話の場だと「なんで殺しちゃいけないんだろうね」と問うことができる。それが哲学対話における知的安全性。普通は問えないことにも向き合って、そこから問える。これは家庭でもできること。子どもの発言を否定するのではなく、それを問いの形にもっていって対話できる。
あっという間に終わりの時間が迫ってきていますが、
みんなの口からはまだまだ言葉が溢れ出てきます。
―いったん相手の意見を受け入れるという、子ども哲学のような対話を続けていたら、子どもたちは「反論」と「否定」の違いを自然に学べて、意見が言えようになってくるのではないか?それは大人になってからは難しいんじゃないか。
―家庭のなかに安心して話せる場所がなかった経験の積み重なりで、正しいことなら言っていいけど、それ以外の自分の思っていることは言ってはいけないと思っていた。本来、家庭で、自分の思いを人に語る経験への慣れ、積み重ねがあるはずだけど、それがないような人にとっては、哲学対話の場はとても貴重な場。自分はこう考えていると言っていいと保証されてあることが、安心安全な場だといえる。
―夢を語ることも正しいことも家庭のなかで語れる環境ではなかった。夢を語るためには、その練習も必要。家庭でてつがく対話をすることは、そうした思いを語れるような場を作るうえで、とても重要。
でも、本当に時間がきたので、今回もここでざっくり終了。
哲学対話、保育、家庭、コミュニティ等々の様々な現場の実践者が集って対話することによって生まれる、この場ならではの対話の実践が今回も生まれることになりました。
問われ、聴かれ、共に考えるという枠組み、場を共有することで、
自分のなかからも内なる他者の声
(それまで身体の奥底にはあっても語られることを聴いたことのないような言葉。聴かれなければ語られなかったような言葉)
が漏れ出てきて、自らを聴く。
それが「開かれる」という感覚につながるように思います。
その感覚は人にも伝染し、身体が開き、言葉が開き、
一期一会のかけがえのない場が生み出される。
哲学対話における安心安全な場とはどういう状態かを、
身をもって体験することができました。
と同時に、場の成熟ということも実感させられます。
新たな参加者がまた違った風を吹き入れてくれるのも嬉しい限り。
実践WSも佳境を迎えてきたような気がします。
さあ、次回は12月18日(火)。
テーマは「子どもと大人の違いはあるのか」。
みなさまのご参加お待ちしております。
(犬てつ ミナタニ)
by inutetsu
| 2018-11-23 02:02
| 「こども哲学」進行役 実践WS