人気ブログランキング | 話題のタグを見る

犬山×こども×大人×てつがく×対話


by 犬てつ

「こども哲学」進行役 実践WS(7)子どもと大人の違いはあるのか

12月18日(火)「子どもてつがく 実践ワークショップ(7)」 開催しました♪ 

Vol.7 子どもと大人の違いはあるのか
講師・進行 安本志帆さん
参加者 8名 

*********** 

5月からはじめた実践WSも7回目。
次回はこれまでのWSを踏まえて、
「哲学対話とは何か」をもう一度問い直すので、
個別のテーマでのWSは今回が最後となります。
今日のテーマは「子どもと大人の違い」について。 

まずは、呼ばれたい名前と、最近嬉しかったこと(楽しかったこと)と悲しかったこと(困ったこと)を一人づつ話していきます。
たまたま最初にあたったのが初参加の方。
突然ふられた話に、嬉しかったことも悲しかったこともまったく出てこず、
とりあえずパスして最後に回してもらいます。 
 
「こども哲学」進行役 実践WS(7)子どもと大人の違いはあるのか_e0382901_17493296.jpg
 
【嬉しかったこと】
―久し振りにあった友だちとおしゃべりした
―お気に入りのカフェをみつけた
―子どもからもらう手紙
―子どもと仲良くなりはじめた
―イベントでたくさん笑った 

【悲しかったこと】
―子どもがトラブルを起こしがち
―家族の病気
―子どもへのいらいらが止まらない
―育児のストレスが自分に向けられる 

子どもの話題がたくさん挙がりました。
子どもの困りごとが日常でも大きな割合を占める様子。
子どもと大人の違いは何かという、今回のテーマにそのままつながる内容です。 

Q 子どもと大人の違いは何でしょう?  

【子ども】
―わがまま
―経験値がないから純粋、個体差が大きい
―損得にとらわれにくい、目の前の人の状態に素直に反応できる
―受け売りで話さない
―自分をだます言葉をあまりもってない
―思ったときに休める(就学前)
―責任を負わなくていい 

【大人】
―経験値で考えて発言できる
―経験や知識のあるなしに発言が比例しやすい
―言葉が多いから自分の思いと違うことも口にする
―自己都合で変換する(自分の欲なのに、子どものためだとか言う)
―身体の声を聴けない(無理して仕事する)
―責任がある(まわりからの期待に応える思い、役割) 

Q 大人が責任を果たせないとどうなるんでしょう? 

―理由を話すと理解されるかもしれないけど、度重なると信用を失う 

Q 子どもは責任がない? 

―背負うものがないような気がしているけど、、、どうだろう?
―子どもの方が許されることが多い 

Q 許されないとどうなる? 

―大人だと犯罪になったりする
―社会性がでてくると許されないハードルが高くなる 

Q 「社会性」が子どもと大人を分かつもの? 

―子どもは学校に行かないといけない。大人は疲れたら仕事の年休をとったりできるけど、子どもは絶対に行かないといけないというプレッシャーがある。子どもの方が責任を負わされている。
―行かなくてもいいという前程があると、もっと学校に行きたくなるかも 

そのとき、参加者からこんな問いがでてきました。 

Q 子どもと大人の違いはあるのかという問いだからいろいろ考えてたけど、そもそも違いはあるのか? (昔は子どもも小さな大人だった。) 

志帆さんは、とてもいい問いだといって、こう続けます。
問いに戻るというのは、たとえばサッカーの試合でボールを見て蹴っているのではなくて、試合のコートを俯瞰して見ていること。いろんな話が矢継ぎ早にでてきて、筋を見失いがちなときは、そもそもの問いに戻って考えることを、進行役としても意識的に心がけているそうです。 

「こども哲学」進行役 実践WS(7)子どもと大人の違いはあるのか_e0382901_17501354.jpg

Q そもそも大人と子どもは違うのか? 

―大人同士でも「お前子どもだな」ということがあって、いろんなベクトルがある
―一人の人間が子どもから大人になるので、その人のなかでの変化はある
―自分の親はいつまでも自分を子ども扱いする。面倒みないといけないと思っていると、年齢に関係なく、親子の関係は続く
―老人や障害者に子ども向けの言葉がけをする人がいる。支援する人、される人の関係にも似た構造がある 

Q 親/子、支援する人/支援される人の構造と、大人/子どもの構造はどう関係する? 
―大人/子どもは具体的な関係ではなくて、法律とかのカテゴリーの意味が強いような気がする
―わが家はルールを決めていて10歳からは自分のことは自分でする、19歳からは自活すると子どもにも伝えてある。10~18歳は、大人に向けて(社会に出るための)準備段階
―子ども哲学と大人哲学の違いで考えてみると、大人は知識で話す。これまでの経験を整理して棚卸して話せる。そうやって言語化できるようになるのは中学生くらいから?子どもは湧き出てくるように話す。園児はまだそれもできない。
―1年生の息子は「子ども」。こちらが気持ちをくみ取る必要があって、コントロールもできる。3年生の娘は娘自身の判断基準が育ちつつあって大人になりつつある。
―高校、大学生は価値基準ができているけど、親からの刷りこみや、それに応えようという意識が作った価値基準が100、150%だったりする 

どうやら、子ども/大人の違いにはいろんな基準がありそうです。 

・法的枠組みだと18歳や20歳・子育て目線だと10歳、18歳
・P4C的には中学生くらい
・年齢じゃなくて価値基準、判断基準がついたとき 

わかってきたのは、子どもと大人の違いは曖昧ということ。 

Q でも、子どもと大人の線引きは難しそうだけど、違いはあるんじゃない? 

という問いを出しながら、志帆さんは自分でいくつかの考えを提示します。
志帆さん自身も考えをまとめきれない様子。 

―前回の犬てつでは、大人の言葉を吐いてしまっているので、小3でも大人かなと思った。幼児だと「子ども」との対話だけど、小学3年生くらいになると微妙になる。小3から出てきた言葉の大半が「大人」の意見。でも、そのなかにも子どもの意見が見えないくらい薄まってるけど、確実に含まれている。そこが見えてくるまでに、子どもの口から出てくる大人の意見に立ち向かわないといけない。それを子ども自身に気付いてもらって、大人の概念を取り払ってもらわないといけない。でも、それを話しているのは3年生なので、そこをわかるように伝えないといけない。

―「問い」を子どもにわかるように伝える。自分で大人の刷りこみの言葉に自覚的に接するように問いかける。そこに「ケア」の観点が生まれる。

―「教育」の観点からだと、子どもの発言が大人のすりこみでも、そこに「論理」が通っていると問題なく受け入れられるかも。それが「教育」と「こども哲学」との違いかも。

―子どもだけでなく、生き辛さを抱えた人も同じような構造があるかも。「社会」とかの言葉に押しつぶされて苦しんでいる。 

「子ども哲学」って何なのか自分でもわからなくなってきた、、、と、
志帆さん自身のモヤモヤが募ります。
そして、さらにこんな問いが出てきます。 

Q 大人の哲学カフェで対話するのと、子どもの哲学対話とは何が違うか?対話をするという目線で考えると、子どもと大人は何が違うのか? 

―子どもと大人の違いよりは、「テーマ」の違いで、社会的なことや大人の価値観が入りやすいかの違いがあるかも。実践WSの第一回目にやった「魚は何を考えているか?」のテーマは大人で話したけれど、「子ども哲学」みたいだった。
―大人しかいないときでも、専門の知識のある人が話した内容と、それを知らない人とでは差があるから、大人、子どもの明確な区切りはない 

志帆さんのなかでは、さらに次々と問いが湧き上がって止まらない様子です。 

Q 「子ども哲学」ってあるけど、どうしてだろう?
Q 大学の先生が、小さいころから考える習慣を作る教育として哲学対話をはじめたから「子ども哲学」というのがあるけど、それだけのこと?? P4Cじゃなくても、P4Eでいいの? 学校でやってるからP4C?
Q 大人/子どもの別じゃなくて、テーマで決まる? 
Q 生い立ちや社会などが影響するテーマはおのずとケアが必要になるから子ども哲学になる? 宇宙人のテーマとかだとあまりケアの要素がでてこないから、大人と子ども関係なしに対話できる?
Q でも、だからといって、子どもと大人は同じだという観点で対話をしていいの? 

―大人は助けてくれると思っている。困っていると配慮して発言してくれたりする。でも、子どもにはそれがあまり期待できない。子どもと対話するには瞬発力や、全力で向き合う必要がある
―人権や個人の尊厳とかは大人も子どもは一緒だけど、子どもの方は体力を使う
―子どもでも配慮できる子どもや、大人でも我勝ちに発言して、話を聞かない人もいる
―大人で聞く耳をもってない人は本当に聞いてないけど、子どもは聞いているように思う。
―聞く耳をもってない人は聞き方は知ってるけど聞いてない。子どもは聞く態度を知らないかもしれないけど、聞いている。
―子どもってすごいようにも思えるけど、いつも支援する側になって言うことを聞けと思っちゃう。子どもを対等に見られると、穏やかになれる気がする
―はじめは座布団や押し入れで遊んでいる子どもは聞いていなくて、そのときどきで反応しているだけだと思った。でも、一年を通してみて、遊んでいた子が家に帰ってからいろんな感想や意見を話していたという、たくさんのエピソードに触れることをとおして、どんなことをしていてもみんな聞いていると思えるようになった。
―聞いていると信じるとイラつかなくなる。ストレスが減る。でも、それを信じて子どもを放置しているのと、気にかけながら見守っているのとは違う。その場では学級崩壊のように見えても、家に帰ってそこでも話を持ち帰って話すエビデンスを聞いていると、放置と自由にさせているのとは似て非なるもの。
―大人は選んで来ている。子どもは大人がいいと思って連れてくることから始まる。スタートが違うから子どもの方が配慮しないといけない気がする。来たかったわけでもないのに、じっと座って話を聴かないといけないのはかわいそう。来て考えてくれただけで嬉しい。 

「こども哲学」進行役 実践WS(7)子どもと大人の違いはあるのか_e0382901_17493889.jpg

いつもは講師・進行役として俯瞰の視点をたやさない志帆さんですが、
今日は参加者と一緒になって頭をひねって考えています。
最後の問いも、参加者から出てきました。 

Q じゃあ、何で大人の哲学対話で聞かない人がでてくるんだろう? どこで大人は聞けなくなる? 

―自分の話を安心して話切る体験がない人は、聞いてくれる人をみつけて、話したいことを話すんじゃないか?
―前回のWSで出た、思い入れ、信念のあることには聞く耳を持ちづらいという話に納得のいくところがあった。
―あからさまに聞けない人がいても、場を作る立場としては、その人が大事にしているものを、その土俵にのって話をするのではなく、そういう意見もあるのかと思えるように、ケアすることにパワーを使うかもしれない。大人は大事に守りたいものがあって、それを攻撃されると嫌がるので、それを配慮、ケアする必要があるかも。反対の意見を聞こうとする安全な場が必要。子どもと大人でケアするところが違う。 

まだまだモヤモヤは続きますが、時間が来たのでこれで終了。
子どもと大人の違いは曖昧だけど、違いはある。
その違いに応じたケアの仕方が必要そうだということが、何とはなしに見えてきました。
たとえばそれはこんな感じ。 

・未就学児や小学校低学年くらいまでの子どもたちは、言いたいことを引き出したり補ったりするようなケア。
・小学校中学年ぐらいからは、大人の言葉を自分が話していることに気がついて、自分の言葉を見つける手助けになるようなケア。
・聞く耳を持たない大人には、大事に思っているところをまずは受け止めてから、聞く耳がもてる安全な場と思えるように配慮するケア。 

もちろんこれだけではないでしょうが、
これを頭のどこかにとどめておくと、進行役をつとめるときに役に立ちそうです。
 
そして、「聞く耳」ということがとても重要なこともわかってきました。
このレポートでは、区別が難しくてすべて「聞く」を使ってみましたが、
場合に応じて「聞く」と「聴く」を使いわけて考える必要がありそうです。 

でも、「聞く」=耳から入っていること。「聴く」=耳だけでなく心も向けることだとすれば、座布団で遊んだり、落書きして遊んでいる子どもたちは「聴いている」とは言えないように思えます。でも、「聞いている」だけとも言えない。

そしたら、子どもたちは「きいている」というこの感覚は、どこから来るものなのでしょう?
もしかしたら、「きく」ということでもない何かがそこで起こっているのではないでしょうか? 

このレポートを書きながら面白いことを体験しました。
レポートは録音を聞き直して作っているのですが、
いつもは聞くのが嫌だった自分の声が、
今回は他の参加者の声に交じって聞き分けづらくなっているのに気がつきました。
ここ数週間、いろいろと考えることがあって、
何かがふっきれた感覚があったのですが、
それが多分、自分にしかわからないくらいの僅かな変化として、
自分の声に反映している。 

おそらく、まわりの人のそんな声の微妙なトーンを
子どもはきっと身体全体で聞き分けている。
意味としてとらえるのではなく、声にふれて感じている。
「聞く」のでも「聴く」のでもなく、
声に「ふれ」、
子どもを含んだ場に向けられた声に「ふれられ」、
共にあると思えるような場、共同体が生まれている。

だから大人は全身で、子どもに向き合わなければ、
子どもにはすぐに見破られる。聞き破られる。
怒られつつも温かみを感じたり、
褒められつつも無関心や妬みを感じたり、
子どもは言葉にふれている。
そして、言葉の意味と声の肌理との不一致が続いていくと、
子どもは混乱して言葉を信じられなくなる。
偽の言葉を話しはじめる。
あるいは、言葉を話せなくなる。 

そんな身体をほぐす場が、
私にとっての哲学対話の場なんじゃないかと、
ふと、そんなことを考えました。 

********** 

さあ、いよいよ次回1月22日は志帆さんの最終回。
WSの一番最初で問われた「対話」とは何かを、もう一度問い直します。
WSを通じて、何か考えが変わったか、変らなかったか、深まったか。
振り返りをしながら「哲学対話」とは何かについて、対話したいと思います。
そして、2月26日のWS全体の最終回では三浦隆宏さんを講師・進行役にお迎えし、
哲学対話の意味について考えます。
WSの回を重ねるごとに、問いの深まりが見えてきました。 

哲学対話とは何か? 

みなさまのご参加お待ちしております。

「こども哲学」進行役 実践WS(7)子どもと大人の違いはあるのか_e0382901_17535764.jpg

 (犬てつ ミナタニ) 



by inutetsu | 2018-12-20 17:55 | 「こども哲学」進行役 実践WS