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犬山×こども×大人×てつがく×対話


by 犬てつ

「子ども哲学」進行役 実践WS(8)哲学対話とは何か②

1月22日(火)「子ども哲学進行役 実践ワークショップ(8)」 開催しました♪ 
Vol.8 てつがく対話とは何か②
講師・進行 安本志帆さん
参加者 7名 

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こんにちは、犬てつのミナタニです。

昨年5月からはじめた実践WS。安本さんが講師・進行役の最終回です。
第一回目に同じテーマ「てつがく対話とは何か」で話したときは、
みんなさっぱりわからない状態でしたが、
8回目となる今回は、同じテーマで話すなかにも、
これまでの哲学対話を通して、
それぞれの対話のあり方がぼんやりとでも見えてきたようです。
私も何を話そうか楽しみにしていたのですが、
インフルエンザを発症してやむなく欠席。
代わりに回の様子を録音してもらって、それを寝床で聞かせてもらいました。
今回はそんな状態でのレポートです。 

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「子ども哲学」進行役 実践WS(8)哲学対話とは何か②_e0382901_15260997.jpg
 
まずはこれまでの実践WSを振り返って、
思ったことなどをそれぞれに話していきます。 

―「哲学対話というものが何なのか」を知りたくてはじめたけど、ファシリテーターにもそれぞれあるし、「哲学対話はこれだ」というものは結局見つからなかった。 

―哲学対話に参加するのが面白くてはじめたけど、どうしてそれが面白いかのヒントをつかみはじめた気がする。 

―普段はどうしても正解を見つけ出そうとしている自分と、それを子どもに誘導してしまっている自分に気づいた。そうではない方向を探していきたいし、子どもたち自身で見つけてほしいと思うようになった。 

―子どもとのコミュニケーションがうまくいかず困って参加しはじめたが、参加を通して学んだ「ジャッジしない」ということを普段にも活かすようにすると、子どもとの関係もよくなってきた。一方の、哲学対話自体はまだ難しいというイメージがあって、自分が進行役になるイメージはまだわかない。 

―ここは自分が話したいと思うことを聴いてもらえるという雰囲気のある、心地よい場。 

―この場に参加して具体的に何か考えが変わったわけではないけど、もともと自分のなかにあった「こうやって子どもを育てたい」という想いを思い出せる場だった。 

―もともと子どもに子ども哲学をやらせたかっただけで、自分が哲学対話をやるつもりはなかったし、苦手だと思っていたけど、実践WSではたまに「自分も話したい」と思うタイミングがいくつかあった。人と違う話をしても自分の話を聴いてもらえるという「安全な場」では、対話は楽しいということがわかったのが一番の収穫。大人は含みのある発言が多くて、自分はそれがよくわからないタイプなので、「会話」は苦手。 

―WSを毎月楽しみにしていた。物心ついたときから失敗したくない、褒められたいという完全主義者だったけど、この一年ですぐにできないことがあってもいいと思えるようになった。それぞれのスピードで進んでいい場所。発言してもしなくても、後からじわじわ考えてもOKと思える場。 

―参加者の数だけいろんな意見がある。複数の視点があると本質に近づく。 

―WSのはじめの頃はいつも「それはなぜですか?」と質問していたけど、今回は「なぜかというと」という理由を質問しなくてもみんなから自然に出せるようになっている。なぜということを伝えるのは、対話において重要なことで、伝わることが何倍にも増える。前よりも子どもとの関係がよくなったという理由の一つには、そういうところがあるかも。子どもの話も決めつけずに、「どうしてそう思ったの?」と能動的に受け止められるようになっているはず。「問う」「聴く」という基本的な態度が一年間で自分のものになってきていて、そういうやりとりが「場の安全性」にもつながるのでは。 

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次いで志帆さんから、
Q これまでやったトピックで、難しかったとか、印象に残っている回はありますか?
という質問がありました。
そのなかで一番に挙がったのは、「会話と対話の違い」について。 

―「対話」をしているつもりが「会話」にずれていっていることが日常でもある。お互いの定義が違って、話しがずれているのに、自分は気付かずに、それに気づいた相手がイライラしていて、よくわからないままに話しが打ち切られた経験がある。普段の「会話」だと思いついたことを話してしまいがち。「対話」には進行役が必要かも。 

―「犬てつごっこ」を子どもとお風呂でやるのがはやってる。たとえば「地球」がテーマで、対話モードになってるはずなのに、太陽が地球のまわりをまわっているという話が子どもからでてくると、「違うよ」と言ってしまう。待てない。待つ練習が必要。そこが自分にとっての対話と会話の違いかも。ファシリテーターをつとめるには「待つ」ことが必要。 

―夫と対話をしようとすると対話にならない。結論から言って欲しいと言われる。私は結論から先に話すのではなく、じっくり話す対話がしたいというと、時間が欲しいといわれる。ポンポン話せるタイプと時間が必要なタイプがある。属性が全く違う人たちの間で「探究の共同体を作る」のは難しいと思った。 

志帆さんからはこんな話が。  

―哲学対話ではフィルターを外すという作業が大事。「哲学」というものの特性が、子どもの意見を大人の意見と同じ大きさのものとして受けとめさせる。そこを大事だと思う人が哲学対話に集まってきている人かも。哲学対話に特に興味がない人と対話をしようとするとハードルがとても高くなる。共感する意見はいっぱいでるけど、批判したり、真っ向から違うような意見はでない場は対話といえるのか? 違う意見がないのではなくて、違う意見をもっていても言ってもいいと思えるような場所になっていないのは、危険性の高い場? 
進行役の力量に安全な場づくりがかかっているのなら、どんな場でも「安全」にできるはず。でも、実際は作ろうとして作れるものではないから、作っているのは参加者だと思った。ここにきている一人一人が安全な場を作っている。でも、反対意見がでないことが安全だと思う人もいるし、反対意見がでないことが安全ではないと思う人もいる。結局対話って何だろう? 

志帆さん自身も参加者の一人として、
哲学対話って何だろうという問いについて、
一緒になって、本気になって考えている様子がうかがえます。
安全な場は進行役が作っているというよりは、
参加者の一人一人が作っているという言葉には、
とても考えさせられるものがあります。
一人一人が会話と対話の違いについて考え、言葉を紡ぎだしていきます。 

―知らない人ばかりの哲学カフェだと話しやすい。社会的責任や損失を負う場所では話しにくい。仕事やキャリア、ママ友の集まりなど。じわじわ自分の意見を言いはじめると孤立するリスクを負う。 

―ここで話しているような「対話」を、普通の「会話」で行使するとうまくいかない。テーマに沿って話しましょうという前程がないと話しづらいかも。 

―どれだけオープンマインドであれるかが重要。安全があるからオープンマインドになれるのかもしれないけど。あらかじめ進行役から見立てが与えられると心構えとしていいのかも。「今日は思想と思想がぶつかりますよ」とか。  

Q 哲学対話は特異性があるもの? 

―ポンポンと対話ができる人同士だと、「会話」のなかでも「対話」になる。でも、時間に余裕がなかったり、対話に時間がかかるタイプだと対話になりづらい。 

Q 対話はスピードに左右される? 

―同質的な人同士だとスピードも速くなる。あっという間にオープンマインドになれる。 

―違いを認められるかどうか。自分の意見もはっきり言える、人の意見も聴ける。哲学対話は人との違いを認めるという経験の積み重ねになる。哲学対話では「テーマ」があるけど、テーマがなくても、「違いを認める対話」は普段の生活のなかでも大切。哲学対話はその練習にもなる。哲学対話は特別なものと区切り過ぎるのももったいない。日常でも使えるもの。PTAでも子どもに対してでも。子どもも自分の一部ではないということがわかる。 

―子どもにはできても、利害関係がでてくるPTAで使うには勇気がいる。 

―自分の思いが強ければ強いほどぶつかり合う。違う意見を受け入れるのが難しくなる。どうでもいいことは聞けるけど、自分にとって大事なことほど多様性を認めづらくなる。哲学対話の場でも、日常でも、共感ベースの設定が相手と違うときにコンフリクトがおこる。お互いに違いを発見できるといいけど、発見できないままに物別れに終わることがある。 

―哲学対話でも、自分と違う意見がでてくると否定されたように感じる。まずは受け止める言葉があると、そう感じる度合いが減る。変なことを言ってないかというおそれが少なくなる。聴く耳があって、それを表現できる術(そうだね、とかの共感の言葉など)があると安全な場になりやすい気がする。 

―質問すると否定されたととられてしまい、関係が悪化することがある。人によって安全のあり方が違うと、その人にあわせた対話をしないといけないのか? 共感や傾聴が一番です、という人も多くて、人それぞれに対話、安全の基準が違う。対話とはこれだという一種の呪いのようなものを取り払わないとうまくいかないかも。 

―会話の場では自分の話はどうせ聞いてもらえないからとシャッターを閉じていた。哲学対話を通じて、会話でも初めから閉じているのではなくて、この場では話そうか話さないでおこうか決められるようになった。自分からも質問するようになったけど、質問すると攻撃されたと思われることがある。 

―哲学対話は開かれている。哲学対話は民主政治の基本だし、みんなに開かれた場で使われるものになればいいな。 

―話しを聴いてもらえるので、この実践WSが好きで来ている。ママ友や仕事の場では途端に自分の意見が言えなくなる。ここは日常から外れた特殊で、非日常な場。でも、今日の話を聴いて、日常にリンクさせたっていいし、日常に応用させたっていいと思えた。ここが特別な場所と思ってたけど、普段の生活に使ってもいいんじゃないか。怖いけど。でも、日常でもいつも一緒の自分でいたいな。 

Q どうして怖い? 

―間違えているかもしれないから?

Q 間違うと誰に悪い? 

―ここは間違ってもいいし、批判されても死なないし、人格を否定されてるわけでもないし、ここはそう思える場所。日常でも、いろんな属性の人が増えているし、みんなが多様性を認めて、一人の人間として、日常でもどんどん対話して、批判されるのに慣れていけば、生きやすくなるんじゃないか。 

―「間違ったらゴメン」とよく言ってたけど、それを言うごとに「間違ったらダメなんだ」という情報をみんなに与えていると思うようになった。映画「みんなの学校」の初代校長先生が子どもたちに間違ったらやり直しをすればいい、と言っていて、やり直すことが大事という価値観を発見した。間違って迷惑かけて怒られて直していけばいいと思えるようになった。 

―哲学対話を自分の生活に取り込んだときに、悩みやストレスが増えることもあるけど、解決するスピードも速くなってきた。間違えずにきちんとやるという学校教育を受け続けてきたけど、こんなに悩んでいる人がたくさんいる。小さい間違いをたくさんやって受け入れてもらえるようになれるといいなと思う。 

―哲学対話を仕事にしていて、哲学対話のことしか考えていない哲学対話バカと、哲学対話を聴いたことも参加したこともない人とが一緒に話せるってなんだろう。動機もスタンスも立場も違ういろんな人が集まっているこの場で、すごく深い学びが起こっている。なぜこんなにみなで学び合えるのか? 結局、日常と哲学対話とはすでにリンクされているのではないか? すごくリンクしているはずのものだけど、スピードが違ったり、様々な人がいるから、リンクしていないとみなが思っているような状況が起こっている? オーストラリアでは哲学対話を使って民主主義教育をしているけど、日本ではなかなか根付かないのはなぜか? 日常にリンクできる、しなくちゃいけない、でも現状はできていない。ここだからできる、外ではなかなかできないという経験、違和感を多くの人が感じている。言ったらまずいなと思って止めている。言ってしまって関係がこじれる。違和感はみんなもっているけど、だからといってこれだと一言では表せない。個としてみると、障害のある人から、対話のスピードの違う人もいる。そういう人たちと「幸せは何か」というようなものを追求していくとなると、哲学対話と日常はリンクさせざるを得ない。哲学対話は非日常だと思っているけど、日常にある。哲学的な問いがないと生きていけない。 

―哲学対話をみんながやったら戦争がなくなると思ってると子どもに話している。そういう気持ちを子どもにも持ってもらいたいと思うし、自分自身もそう思う。 

―「探究の共同体」の回のときだったか、一人一人の子どもにはそれぞれの背景がある、そこを想像して質問する、というところがあったけど、大人においても同じ。 

―「思いやり」が生まれるのかな? 

―でも、思いやりも難しくて、どこまでが思いやりで、どこからか押しつけかが難しい。それぞれの背景があるのを想像するのは絶対必要だけど、想像することだけじゃなくて、自分の思いを押し付けると暴力性がでてくる、デリケートな問題。だから「聴く」とか、「待つ」とかいう進行役のありように密接に関わっているかも。 

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「子ども哲学」進行役 実践WS(8)哲学対話とは何か②_e0382901_15261300.jpg
 
といったところで時間切れで終了です。
さすが8回目ということもあって、みんなも対話に慣れてきて、
志帆さんは進行役として場を仕切るというよりは、参加者の一人として発言し、
参加者が問いを出す場面もたくさんでてきました。

特にテーマや問いを設けたわけではありませんでしたが、
志帆さん自身の「対話」が何かやればやるだけわからなくなってきた、
という率直な意見をベースに、
「会話と対話の違い」が大きなトピックとなり、
「時間」「スピード」「安全性」「同質性」「違いを認める」「日常とのリンク」「民主主義」「聴く」「待つ」など、
対話の本質について考える言葉が次々と紡がれるような場となりました。
「探究の共同体」が、すでにこの場に体現されているように思います。 

なかでも本当に驚いたのが、
「哲学対話を日常にリンクさせる」「民主主義の基本としての哲学対話」など、
これまでにあまり出てこなかった話ですが、
私にとっては哲学対話とこの実践WSをはじめた根っこにもなっているようなテーマが、
私の参加していない場所で、参加者の口から自然の流れで紡がれていくことでした。
子ども哲学は特にアクティブラーニングや、より質の高い教育の流れのなかで注目され、
何か流行りの教育方法のように受け取られていることも多いですが、
私にとってはそれ以上に、一人一人が個として、他者との違いを認めながら、
共に生きることを本質から解きほぐし、考える実践の場でもあります。
一体それはどうやったら可能なのか?
簡単な答えなど見つかるわけはありませんが、
共に考える場は確かに作れると、
この犬てつ実践WSの場が教えてくれているような気がします。 

最後に、哲学対話に「哲学」の知識は必要はないけれど、
ある問いについて人生を捧げて深く深く考えてきた哲学者の言葉は、
哲学対話についてのたくさんのヒントを宿しているように思います。
カントの『永遠平和のために』、そしてハンナ・アーレントの『カント政治哲学講義録』を改めて読んでみたいと感じました。 

さてさて、2018年度の実践WSも残すところあと一回となりました。
次回は一年目の犬てつで大人の進行役を引き受けてくださった三浦隆宏さんをお招きします。
テーマは「哲学対話の意味を考える」。
志帆さんとはまた違った視点から、
哲学対話の意味についての「問い」を投げかけてくれるでしょう。 

みなさまのご参加、お待ちしております。 
  

 



by inutetsu | 2019-01-30 15:27 | 「こども哲学」進行役 実践WS