「子ども哲学」進行役 実践WS(9)哲学対話の意味を考える
2019年 03月 03日
2月26日(火)「子どもてつがく 実践ワークショップ(9)」 開催しました♪
Vol.9 哲学対話の意味を考える
講師・進行 三浦隆宏さん
参加者 12名
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今年度最後の実践ワークショップです。
講師・進行役には犬てつ初年度の一年間、大人の哲学対話の進行役を引き受けていただいた三浦隆宏さんをお招きしました。
三浦さんと同じときに子どもの進行役をつとめていただいた安本志帆さんには実践WS全8回を担当いただきましたが、今回は安本さんには参加者として加わってもらいます。
これまでの犬てつレポートにもざっと目を通してくれた三浦さんは、
今回は「哲学対話の意味を考える」ということで、
哲学対話について考えるうえでの足懸りとなるような、複数の声を紹介してくれました。
鷲田清一、國分功一郎、貴戸理恵、斎藤環、平田オリザ、梶谷真司、デヴィッド・ボーム、ヴィトゲンシュタイン、ハンナ・アーレントの言葉からは、
・他人から身をひきはがして後方から見ることが基本としてあるような「対話」
・同質性を前提とした「コミュニケーション」/相互理解の不可能性を前提とした「ダイアローグ」/モノローグの応酬としての「ディスカッション」
・一者のなかの二者
・沈黙や誤解、対立といった「ノイズ」を含みもつ「対話」
といったような、「対話」における重要な参照項を読み取ることができます。
まずはじめに、「コミュニケーション」「コミュ障」についての文章を検討するなかで、
三浦さんからはこんな問いが出されました。
Q たとえば個人の属性としての力で、努力によって向上するような力には、「学力」「語学力」などがありますが、「コミュニケーション力」などは個人の努力だけで上がっていくものではありません。本来ならば話しやすい雰囲気であったり「場」の状況によって変化するものなのに、「個人」の力や、魅力に帰される風潮にある力は、他に何がありますか?
真っ先にあがったのが、「女子力」です。
そのほかにも、「力」ということの類推から、赤瀬川源平さんの「老人力」や、阿川佐和子さんの「聞く力」といった言葉もあがりますが、それぞれに個人の力と場の力の両方に関わるところが多そうです。
ほかにもよく耳にするものとして、「人間力」や、ビジネス書にあがる「決断力」「判断力」といった言葉もあがります。これらも個人の力として考えられる風潮がありますが、本当にそうなのか、大いに検討してみる必要はありそうです。なんと、2006年には経済産業省が「社会人基礎力」なるものを提唱し、「職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な力」として、「前に踏み出す力」「考え抜く力」「チームで働く力」の三つの能力を掲げていたようですが、この能力も本当にどこまでが個人の努力で獲得されうるものなのか、とても怪しい....。
「コミュニケーション」が「場」の状況に左右されるものであることを確認したうえで、
次いで、「ダイアローグ」について考えます。
・コミュニケーションがわかりあえるという「同質性」が前提になっているとするなら、ダイアローグでは「わかりあえないからこそ対話が可能になる」。
といった内容の引用をまずは読んだところで、それぞれに思うところを話します。
―日頃の職場でも、そうした感覚はいつももっている。理解は絶対にできないという前提に立たないと、自分の精神が破壊されてしまうかもしれない。そこに踏みとどまりつつ、そのなかでできることしかやれない。
―理解には「相互」ということが重要。人を愛するということはどれだけ自分とは違うかということを襞のように理解していくこと、こんなにも違うということを知ることが愛だといった文章を読んだことがある。
―相手の心をわかりたいと思うけど、わかるためには、自分の気持ちと相手の気持ちを見比べる視点が欲しい。相互理解がイコールになるような「上の視点」に立つことはできないので、他者理解は無理。結局自分のことしかわからない。理解はできないというあきらめからスタートするのと、相互理解が可能だというところからスタートして、どうしてわからないの?となるのとでは向きが違う。今の社会は相互理解ができないから、もう話すのは無駄だとか、閉じた仲間内でのコミュニティでの分断化が過剰になっている。つながろうと思ったら、趣味、趣向が似ている人とSNSで簡単につながれるので、そうした向きが強くなっている。
―相互理解はあるという幻想をもっていて、相互理解のための努力を続けてきた。でも、共感しないといけないという負荷を背負わなくていいと思ったら楽になった。わかりあえないところを起点として、どうやって生きていくかのやりとりを重ねていくことが愛情。さみしさが減った。コミュニケーションの前に対話があるのではないか。
―愛は本人がもっているものではなく、人と人の間にあるもの。その関係性が愛で、人間の外にあるもの。相互理解や共感は「所有」。対話は「所有」じゃなくて「応答」だから、「交換」に近い。でも、理解がなかったら関係はできない。対話オンリーだけだと成り立たない。できあがった関係を問い直す関係。対話的生活を唱える人もいるけど、理想的な考え方だけど、実現するのは難しい。
引用文のなかには「愛」についてなど何も書かれていないのに、
話はどんどんと「対話」と「愛」の関係に引き寄せられていきます。
「コミュニケーション」と「対話」を分かつものに、
「愛」は大きく関わっているのでしょうか。
―「対話」は「愛」の一種。人間には欲望があって、それをなくすことはできないけど、対話をしているときは「愛」なのかな。
―「あいだ」のなかで対話をかわして愛をやりとりしていて、相手が愛してくれるかどうかはわからないので賭けである。こちらが愛をむけても、相手が返してくれるとは限らないけど、愛さざるを得ないこともある。見返りが必ずしも期待できない「贈与」である。
―哲学対話における言語の限界を考えている。哲学対話は「哲学」といって、言語も大事にしているけど、感情や沈黙もとても大事。哲学者がどう言ったというのではなく、自分の経験で話そうというところなので、言葉以外のものが大きく作用してくる。哲学対話における言語の役割はなんだろう。言語に縛られて対話が深まらない場面も多々あるし、だからこそ子どもの対話が面白かったりもする。
―哲学はそもそも過去の哲学者によって語られた言葉を学ぶものでもあった。どうして哲学対話が哲学になるのだろうか? 会話は相互理解、同質性、話の内容を共有すること。でも、時間と場所を共有するという意味では哲学対話も同じ。言葉のレベルでは共有しないけど、時間と場所、テーマは共有する。純粋対話を考えるとして、純粋対話のなかに「共有」することはあるのだろうか。
愛から言語、そして非言語的な要素について話は進みます。
―「共有」と「共感」の違いは何だろう?「共感」はうんうん、そうという感じ。
―対話には「ノイズ」がすごく大事。そもそもノイズがなかったら自分自身でも対話ができない。するすると円滑なコミュニケーションだと、ひっかかりがなくて浅いものになる。対話は何かひっかかりがあるから深くなる。言葉にならないところがすごく大事。「何か」が言語化されずにみえないままでも、他の人も何かをもってるんだなということがわかるところが面白い。沈黙もみんながいろんなことを考えている時間だと思うと面白い。そういうことに価値をもつ人が多くなると、スピードだけではなく、個性も当たり前に大事にされる社会ができるんじゃないか。
―やっと哲学対話という場にたどりついたけど、もっといろんなところでやってくれてたらもっと早くたどりつけたと思う。哲学対話をやることによって、日常を生きることが楽になった。娘も同じで、人との対応がかわってきて、自分が出せるようになってきている。批判されるのが怖くて言えなかった意見も、批判されてもいいやと思って言えるようになった。哲学対話の時間があることによって、コミュニケーションが変わってくる。哲学対話を通じてアイデンティを確立することによって、他との関係がかわってくるのではないか。
―仕事ではディスカッションをしている。答えをだすことが求められている。この場は安心して自分のことを言える場所。子どもにも、いろんな人にも体験してもらいたい。しっくりこない場合があって、いつかまた戻ってこれる場所であっていいんじゃないか。もっとこうした場が増えてほしい。それが「哲学対話」という名前なのかどうかはわからないけど、身近にあってほしいもの。「コミュニケーション」と「対話」をわけることは大事で、ここは「コミュニケーション」ではなくて「対話」の場ですよということではじめて話せることがある。
―「コミュニケーション」における、「円滑で気持ちのよいもの、否定されず共感されやすい」といったやり方が、日本では良しとされる風潮がある。だから、対話のもつ沈黙が誤解されやすい。
―言語を獲得する背景が人によって違っていて、同じ言葉でも意味が違ったりする。だからこそ、言葉を投げ合った「合間」「非言語的なもの」が大事。
「対話(dialogue)」は、
ギリシャ語の「dialogos:dia(~を通して)+logos(言葉)」
という言葉に由来するものですが、
「哲学対話の意味」を考えるなかで出てきたのは、意外なことにも、
「哲学」「対話」ということで思い浮かべられがちな「言葉」ではなく、
「愛」「沈黙」「合間」「ノイズ」といった、「非言語的なもの」でした。
「哲学(philosophy)」は、
同じくギリシャ語の「philosophia:philein(愛する)+sophia(智)」
という言葉に由来するものですが、
この「智」ももしかしたら「理性」というよりは、
ギリシア時代に確立したギリシア悲劇の世界観にもあるように、
人間を破滅に誘うような超自然的で、盲目的な力に通じるものかもしれません。
はからずも、哲学対話で愛を語る。
あまり考えたこともなかったことなのですが、
「会話」と「対話」の違いには、
やはりこの「愛」があるような気がしてきました。
哲学対話は、言葉を通して、智を愛すること。
言葉を媒介に、絶対的に理解できない智を体現している他者を愛し、
言葉では触れえない、その他者の息遣いや、存在そのものに、
同じ場を共有するものとして触れ、
その他者にとっては、同じくそうした他者として現前している自己を、
それとして認め、愛する(philein)こと。
哲学対話の意味とは、そんなところにあるのかなと、
一年をかけて考えてきた哲学対話を知る試みのなかで、
こうした言葉が自分のなかから紡がれでるのが、とても不思議な気がします。
愛なんて言葉がむくむくと立ちあがってくるなんて、、、、やっぱり対話は面白い。
これまでとは違うノイズ混じりの新しい風を吹き込んでくださった三浦さん、
ずっと併走してきてくれた志帆さん、
この一年間ご参加くださったみなさん、
ありがとうございました。
2018年度犬てつはこれで一旦終了です。
5月から開催予定の2019年度犬てつ実践ワークショップ(第二期)では、
進行役としての実践的な経験をもっと増やしていこうと思います。
前半では希望者に進行役をやってもらって哲学対話を行い、
後半にはその対話について考えるというような、
そんなセッションをもちたいと考えています。
近日中に予定の方もお知らせします!
みなさまのご参加お待ちしております♡
(犬てつ ミナタニ)
by inutetsu
| 2019-03-03 09:31
| 「こども哲学」進行役 実践WS