「子ども哲学」進行役 実践WS(10)哲学対話とは何か&メタ哲学対話
2019年 05月 29日
5月26日(火)「子ども哲学進行役 実践ワークショップ(10)」開催しました♪
テーマ 哲学対話とは何か&メタ哲学対話
講師・進行 安本志帆さん
参加者 15名
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こんにちは、犬てつのミナタニです。今年度の実践ワークショップがはじまりました。
昨年度(第一期)が、哲学対話を通して哲学対話について考える「心得編」とするなら、
今年度は、希望者に進行役になってもらったり、哲学対話についてのメタ対話を行ったり、
哲学対話とは違った手法を通して哲学対話の特性を浮き彫りにしたりといった、
より実践的なワークショップを行う予定です。
犬てつの活動も今年で三年目。
継続的に活動を行うなかで、固定メンバーもできてくる一方で、新しい方も頻繁に顔をのぞかせてくれます。
仕事を休んで来てくれたり、遠いところから足を運んでくれたり。
子どももいれば大人もいる。女性もいれば男性もいる。学生もいれば社会人もいる。
志帆さんの言葉を借りると、「出入り自由の風通しの良さ」が、犬てつの特徴なのかもしれません。
今回は本などを通して哲学対話に興味をもち、犬てつをはじめて知った方も数人いて、
てつがく対話の広がりを感じます。
なるべく多くの方に参加いただけるようにと、定員を超える総勢15人でのスタートとなりました。
最初に読んでもらいたい名前と、どうして哲学対話に興味をもったかなどを話してもらいます。
・子どもに生きる力をつけたかった。
・自分の言葉を探したい。
・哲学対話についての本を読んで興味をもった。
・子ども相手の仕事に活かそうと思って。
・哲学対話に参加するなかで、昔観た映画「ちいさな哲学者たち」を思い出した。
・哲学対話をやってみたいと思った。
・地域の活動に対話を活かしたいと思っている。
・哲学対話について何も知らずに参加したけど、面白いから通い続けている。
・参加することで自分と子どもとの対話に変化がでてきた。
一人ひとりがそれぞれの関心や経験に根差した言葉を紡ぎます。
次いで、志帆さんから昨年の第一期でも話してきた哲学対話についての振り返り。
・円になってボールを持つのが哲学対話といった方法論ではなく、
自分だったらどういう対話をするか考えたり、気づいたりする場にしてほしい。
・一人ひとりの発した言葉の背景には何があるかに興味をもつ。
・進行役にはそれぞれの個性がある。
・哲学対話の一番の特徴は、ルールに則って対話すること。自由を大事にするための場所だからこそルールを決める。ルールによって制限を設けること、安心して話すことができる等々。
そして、休憩をはさんで、第二部では実際に哲学対話を行います。
でも、その前に志帆さんからちょっと前置き。
この対話の後に、自分や場を俯瞰した視点から対話する「メタ哲学対話」を行うので、
対話に参加するだけでなく、参加している自分や場を俯瞰的に眺める視点も持っていてほしいとのことでした。
テーマは「なぜ悲しくなるんだろう?」
口火を切ってでてきたのが、
・悲しさには喪失感がある。
Q なぜ喪失すると悲しくなるのか?
・自分の一部なので。自分の一部が欠けるような気がする。
・「心にぽっかり穴が空いたような」という比喩もある。
・自分は涙もろいのだけど、自分の一部が欠けるようなときではなく、ドラマの一シーンとか想像して悲しくなるときに泣ける。欠けないけど悲しいこともある。欠けるというよりは引き裂かれる。
・悲しい=泣くではない。嬉しいときも泣く。
・人によって泣くときが違う。自分と強い関わりがあるものが悲しみを起こさせる。過去に経験したりとか、強い関係性があるときに感情がわきおこる。(悲しみも怒りも。自分との関係性)
・何かを失ったときも悲しいけど、自分が大切にしているものを否定されたり軽く見られたときに悲しくなる。
・映画や本を読んで悲しくなるのと、自分がリアルな経験をして悲しくなるのとは同じなのか?
・悲しんでいる人を見るだけでも悲しい。
・映画や本で悲しくなるのは、経験を思い出して悲しくなる。共感とかに関わる。悲しい体験というのは、傷つけられたとき、わかってもらえなかったときとかかな?
・報われないとき、罪悪感を感じたとき、絶望感を感じたときとか、悲しみを感じるのではないか。自分はなんでちっぽけなんだとか。
・自分のなかの思い、希望が思う通りでないところに反応して悲しくなる。
Q 「自分」というワードがよくでてきたが、このときの「自分」って何だろう。
・つらいと悲しいの違いはなんだろう。悲しいは人に対して思う感情。つらいは乗り越えていかないといけないけど、悲しいはどうしようもなくて、「自分」の手の及ばないもの。
・「自分」というのは身体と脳みそで考えたりする部分。他人とどう共感しようが自分は自分。悲しいと思うのは、生きていくうえで自分がこうあってほしいと思う世界が崩れたときに感じる。自分の常識と願望のバランスが崩れたとき。
・悲しいを通りこしてつらい。池袋の自動車事故で妻と子を失った夫。拉致被害者の家族。女の人は子どもが生まれた途端に子どものことを中心に考えはじめる。親になって子どもを育ててはじめて一人前になるといわれる。子どもと親は同一化してるんじゃないか。
・同じ映画でも泣く人と泣かない人がいる。泣く人はその場面で何かを吸収して悲しいスイッチが入る。
・泣く=悲しいではない。心が動いたときに泣く。知人が亡くなったとき、「悲しい」から泣いたというよりは、心が動いて自然に泣けてきた。悲しいと思うのは、その人が亡くなったことではなく、自分とその人との関係における願望が満たされなかったことが、今後も決して満たされることのない事実を「悲しい」と思う。
Q 人が亡くなったり、何かがなくなったりすることが悲しいのではないとすると、何が悲しいんだろう。
・大往生した方のお葬式に行くと、その人が幸せに人生を送られて亡くなったことは素晴らしいことと思える。でも、思い出を辿ったときに、もういないんだという悲しさもある。事象自体は悲しくはないけど、出来事の思い出は悲しい。
・認知症の方や、記憶を失った方は悲しめるのだろうか?
・悲しみという感情はどの人の心のなかにも潜在的にある。その表現が泣くにつながるかどうかは人によってちがう。母は子どもが自分の一部だという思いが強いから、子どもの悲しみを共有して悲しむということがある。自分=肉体をもった個だけど、「思い」という部分では共通のものが根底にあるから、悲しみ、喜び、つらさは共有できるのでは。
Q 子どもを一部のように感じるとあったが、子どものことを親は本当にわかっているのだろうか。子どもの気持ちを親はわかるのか?共通のものが本当にあるのか?
・関係性が希薄になれば悲しみはおこらないかもしれない。
・母に交通事故だけはおこすな、私よりも先に死なれては困ると常々言われてきて、自分の娘にも同じことを言ってる。「困る」というのは、娘がいなくなった自分がものすごくつらいだろうということを想定している。どんなに娘が太く充実した人生を送ったとしても、母としては先に死なれては困ると思う。あくまで「自分」との関係。自分が基準。娘の感情はわからない。
・お葬式に行ったときに、「悲しい」とは思ったけど、その悲しいのなかにいろんな意味がつまった複雑なもの。
・映画をみてるときに、自分の境界が広がっている感じがする。伸び縮みする自分。人と自分の境界があいまいになることがある。
Q それは人の気持ちを「理解する」ということですか?
・理解するというよりは自分を持っていかれる、という感覚。
…話は尽きませんが、時間がきたのでここでばっさり終了。
「悲しい」からはじまって、「喪失感」「泣くこと」「共感」「同一化」悲しいと辛いの違い、悲しいと「自分」、自分と他者との関係など、悲しさにまつわる様々なトピックがもちあがり、それをとりまく感情や感覚が幾重にも複雑に絡みあっていることがわかります。
続いて「メタ哲学対話」の時間です。
「悲しい」についての哲学対話をしてみて、思ったこと、感じたことをまずは共有します。
・志帆さんはちょいちょい問を入れてくれるので、場をホールドしている感じがする。今話している問の中心はここだよということがわかりやすい。
・話を聴いてくれているという安心感があって、それが場の安全性を作っている。聴くだけじゃなくて、聴いていることが伝わるような問いかけや受け答えが重要。
・悲しんでいる人を見たときの悲しさの発言をしたときに、志帆さんから「それってどっちの悲しさ?」と問われることで、自分の考えをよりクリアにすることができた。
次いで、参加者から志帆さんに対して次々に問いが投げられます。
Q 進行役は自分の感情や意見をおさえて中立でいた方がいい?
でも、どんなに目指しても中立はあり得ないんじゃないか?
志帆さん:無自覚にそうしたバイアスがかかっている人もいるので、そこに気付いていることが重要。一旦自分が経験として苦しみぬいてやっとつかんだ自分なりの真実と違う意見がでたときに対立が起こるけど、自分とはどんなに違う意見でも、それはその人の経験だと思えると面白く聞けると思う。ここまでは一緒だけど、その後はこの人はどう思っているんだろうと思えると、前のめりに聴けるようになる。
Q 自分が聞きたいポイントと、志帆さんが聞きたいポイントが違うときがある。自分の興味のあることを聞きたくなるけど、そういう気持ちは打ち消した方がいいのか? 自分の興味でどんどん掘り下げていきたくなったときに、進行役としてはそうした気持ちを消した方がいいのか? さっきの対話だと自分は「死」についてもっと掘り下げたかった。それで偏った対話になっても、進行役の個性ということでいいのだろうか?
志帆さん: 自分の聴きたい気持ちで進めていけばいいのではないか。ただ、私も死については興味はあったけど、今回の対話のテーマは「悲しみ」で、自分の軸としては「悲しみがなんで起こるか」ということを探求しているつもりだったから、死については掘り下げたいとは思ったけど、今ではないかなと思った。でも、自分のやりたい気持ちを打ち消す必要はあるのだろうか? それはその進行役のカラーとしてあって、進行役は、今どういう話をしているかの交通整理をする役だということも忘れないでおいた方がいいと思う。
Q 自分の興味の「偏り」が怖い。中立性を保てるかどうかが自信がない。
志帆さん: 特に子どもに対してなどの場合、たとえば人のために生きるべきだとか思っている軸が自分にあったときに、対話のときにその偏りを自分が強くしてしまって、こっちが正しいと思わせるようなのはよくないように思う。その辺のところは他の方はどう思われますか?
・自分をよく見せたいので、いい質問だねと言われそうな質問をしてしまうことがある。教室だと問題の解をとくためのいい質問というのがあるかもしれないけど、今回はじめて哲学対話に参加して、ここはそうした正解をいう場所ではない、ということを自分に言い聞かせておく必要がある気がした。
志帆さん: たとえば自分がすごいなと思う意見がでてきたときに、それってすごいね!といってしまうことはいいことか悪いことか、どう思いますか?
・そういうことを言う進行役にあたったことがあるけど、私はいい感じがしなくて違和感があった。いいと言ってしまうと、言われなかった方の意見がダメだったような気がしてしまうので、フラットな方が私は好み。
・公平じゃないことはあるかもしれないけど、いい悪いという主観は絶対あるので、いいものを発見できるというのはすごいいことなんじゃないか? いいということを発見できないのは、話をきちんと聞いていなかったことにならないか? 誰かを個人的にひいきするのはだめだけど、意見と人は区別しないといけない。誰かが偶然言った答えがいい問であれば、「いい」と言っていいように思う。
・特に子どもに対しては、いい意見を言ったときに、それを「いい意見だね」というのではなくて、うなづくとか、別の共感の仕方もあるのかなと思った。いいね、悪いねじゃなくて、どの意見にも「面白いね!」「なるほど!」みたいな対応がいいのかな。
・いい悪いというのは比較していること。哲学対話の場所は比較がなくて、その意見が正しいか正しくないかの色分けをしないというルールがあるわけで、そこに価値があると思っている。意見に賛同するのはうなづいたりといった態度にでたりするから場にいる人には伝わるもの。でも、進行役の人が「いい」と言ってしまうと、その方がいいんだというムードになってしまう。そういうムードで話すことは日常会話のなかで山のようにやってることで、哲学対話にはそうではない場を求めている。進行役がそれをする必要はないと思う。
・何を言ってもいいような場を作ることが大事。そういう場があれば、進行役の一言に左右されないこともある。場の力に支えられてできている。
といった話がでたところで、こちらのメタ哲学対話も時間がきて終了です。
進行役は中立を保つべきか、保てるのかというところに、関心は集中しているようでした。
最初は志帆さんへのQ&Aスタイルで話が進んでいきましたが、
志帆さんに問いを投げ返されることによって、
次第にそれぞれのなかに理想とするような進行役像があることも確認されていきました。
はてさて、進行役はどういう人であるべきなのか?
中立を保てる人?
どんな意見にも興味を持てる人?
どんな意見も理解してさばく力のある人?
交通整理ができる人?
それとも「べき」なんて考えない方がいいものなのか?
いろんな考えもあるだろうけど、自分の個性を進行に活かせることが、きっとその人の強みになる。
そんなことも再確認しながら、3時間に及ぶワークショップもこれで終了。
いつもより長時間のワークショップでしたが、まだまだ話足りないくらいの内容でした。
しかも、去年一年間を通して対話してきたことが、継続してきている参加者のなかでじわじわと温まってきて、
自分の言葉として語り直されはじめているのが伝わってきます。
継続は力なり。でも、まだまだ自分なりの進行役はどういうものか、つかみかねている様子です。
さあ、次回からは実際に進行役も参加者でやってみますよ~。
みなさまのご参加、お待ちしております。
次回実践WS Vol.11:6月18日(火)10時半~13時頃か
by inutetsu
| 2019-05-29 00:32
| 「こども哲学」進行役 実践WS